のえパラのおかげで自分の価値観に名前がついた話。
.
一時はご本人にファンレターでも書いて気持ちを伝えようかとすら悩んだほどでした。それほど私にとって「のえパラ」は転機でした。
が、上手くまとめられる自信もない上に、彼が作り出した世界、歩み続けるアイドル街道、その中のほんのひとつまみに感化された一ファンの興奮状態の話をどう消化していいものか分からず。
お忙しい彼の限られた時間を割いてもらう前に、自分の中でも一度「のえパラ」後の話を整理しようと、こうしてブログ記事を書き出した次第です。
過去の記事でもお伝えしておりますが、実在する人物について記事を書いております。ご本人含め関係者の目に触れることも留意した上で、誤解を与えない、不愉快な感情になる方が出来るだけ少ない、そんな文章を書くよう心がけておりますが、万が一気になる点がございましたらご一報ください。
また、今回の記事に関しては、ジェンダーに関する私見を記述した部分がございます。あくまで私個人の意見、考えですので、他者を攻撃する意図は一切ないことを先にお伝えします。
しかし、私とは違った考えを持つ方が大勢いらっしゃることは理解しておりますし、匿名性の高いSNS媒体においては率直な意見交換が交わされることも存じています。とりわけジェンダー論はその多様性から、全ての方に平等に配慮した記事にすることは難しいと考えています。
今回は筆者の体験を通して感じたことを綴る記事となっておりますので、お読みいただいている方との価値観の違いは寛大に扱っていただければ幸いです。
この記事は私自身の話が多くなると思われます。Travis Japan 川島如恵留さんについての記事だと思ってこのブログを開いてくださった方は下記のブログをご参照ください。
のえさんをヨシヨシナデナデラブラブしたい - オタクってなんだろう。
私はこれまでの人生で、私自身を、こころもからだも女性であり、恋愛感情や性的嗜好は異性(自分自身が主に女性という認識なので、以後男性と書かせていただきます)に対して持つ、というように捉えていました。
一方で、「同性愛」と呼ばれる類のものが、自分と全く縁がないとは思っていませんでした。
男性と交際している自分と同じくらい、女性と交際している自分も当たり前に想像の中にいました。
「彼氏がほしい」と口では言っていても、はっきりと男性のパートナーを思い描いているわけではなくて。あくまで想像の私のそばにいるのは「恋人」であって、男性、女性は気にしていなかった。
それを、私はずっと誰もが持ち得る「普通」だと思っていました。みんな言わないだけで、きっと同じような感覚なのだろうと。
自分の中で周りとの違いを感じ始めたのは、とある映画がきっかけでした。
好きな俳優さんが、男性同士の恋を描いた映画に出演されるという情報を得て、予告動画を観にリンクを踏みました。その動画のコメント欄に、
「BL好きなので楽しみです」「〇〇さんとBLとか好きすぎる」
というような書き込みがありました。
否定はしません。「BL」というジャンルが人々の趣味嗜好として確立されたものであることは確かです。ただ、その呼び方や捉え方に疑問を感じたのです。
その予告動画の中で、「BL」という単語は一度も使われていませんでした。出演者の皆様も、「恋のお話です」とだけ仰っていました。
それを、同性の恋愛を自分の外部のことだと考えている人が「BL」という括りに入れている。
今、世界中で尊重の動きが加速している「性的マイノリティ」と呼ばれる方の恋愛は、現実の世界で実際にある話で。
その人たちは、「マジョリティ」だと思っている人々に「マイノリティ」という色をつけて見られていることに、マイナスなものを何も感じていないと言えるのだろうか。
性別、あるいは恋愛や性的嗜好という観点における社会への違和感は、この映画を知る前から、ずっと思っていたことでした。
例えば、雑誌で芸能人への恋愛にまつわるインタビューがあるときに、男性に対しては「彼女」、女性に対しては「彼氏」というワードが使われることがほとんどです。
何も芸能人一人一人の価値観や感覚を全て反映させた記事にしてほしいなどというつもりはありません。ただ、このような言葉の選び方に全く疑問を持たずに享受している現実はそのままでいいのだろうか。文字起こしではないから、実際にインタビュアと芸能人がお話しされたこととは違う部分も少なくないだろうけれど、この人が思う恋愛対象は必ずしも異性であるとは限らないし、受け手が考えるものも同じく。
「ほとんどみんなが異性に恋をし、異性に対して性的嗜好を持つ」という社会からの刷り込みによって、そういった価値観が当たり前だと思われるようになっていくし、そのことによって余計に「性的マイノリティ」と呼ばれる人々は少数派だと思われるようになる。
その疑問や違和感は、「当事者」として私の中に生まれました。
クエスチョンマークが浮かぶ時、私は性的マイノリティの一員として自分を認識しているように思えました。
この映画についての話が自分の目に飛び込んでくる度に、「この違和感は私以外に誰も感じていないのだろうか?」と思うようになりました。
私の周りに、同じような思いを抱える人は誰もいないのだろうか。これは私に特異な考え方なのだろうか。私は「人と違う」のだろうか。マイノリティなのだろうか。
そして、今年の8月1日。
Travis Japan 川島如恵留さんのソロコンサート。
「誰も取り残さないアイドル」を常に掲げ、1時間半の大スペクタクルを見せてくれた如恵留さんは、わたしのモヤモヤした思いをも拾い上げてくれました。
その中で披露された、Sexy Zoneさんの「名脇役」という曲。幾度となくご本人以外のジャニーズの方にカバーされている、名曲です。私も、のえパラの前から大好きな曲でした。
その曲そのものの歌詞を否定はしていませんが、複数のファンの方が既に言及されているように、如恵留さんが1番だけを披露したこと、そしてJr.の男の子を曲の表現としてダンサーに充てたことは如恵留さんなりに意味があると思っています。
訳あってブログは見れない環境にある(辛うじて毎日更新していることと定期更新回が長いことは知ってる)ので、細かいところまで如恵留さんの考えに触れることはできないのですが。
「誰も取り残さない」という如恵留さんの言葉に、性別、年齢、障碍などのハンデ、それら全てに関わらず、人というものを皆同じように愛していきたいのだと、そういう気概を勝手に感じている今日この頃。
この言葉を聞くたびに、私は共鳴する、というより、それが私の価値観と合致している、と思うのです。
彼の本当の思いは分かりません。ファンの思いを汲んで、長いブログを書いてくれる彼でも、彼自身の思いを全て文字にして伝えることは不可能でしょう。
それでも、のえパラを見て、如恵留さんがいてくれるなら、私はこの価値観でいていいのかもしれないと思いました。たとえ周りにこの感覚を共有できる人がいなくても、如恵留さんが温かい思いで活動をしてくれていて、ファンを愛してくれて、その一部に私も入っていていいのなら、私はこのままでいたい。
如恵留さんがそうしているように、たくさんの知識をインテイクし、自分なりに並べて、理解して、その上で世界を愛したい。知らないことを知らないままにしないで、能動的に情報を取り入れ、自分のことも、周りのことも、ちゃんと理解したい。
そんな思いを、のえパラを見て抱きました。
サマパラ2020の全日程が終了した頃、きちんと性的マイノリティについて調べ始めました。本を読んで、ネットで調べて。前述のような思いを抱えていても、自分の認識は甘すぎたのだと分かりました。
その上で、私は全性愛者(オムニセクシャル)であると自分を認識するようになりました。*1
人のジェンダーを認識した上で、恋愛対象や性的対象においてはそれを区別しない。男性、女性、Xジェンダー、そのほか沢山の性があることを認識はするけれど、私が人を好きになるとき、その人のジェンダーははっきり言ってどうでもいい。
例えば、雑誌で芸能人への恋愛にまつわるインタビューがあるときに、男性に対しては「彼女」、女性に対しては「彼氏」というワードが使われることがほとんどです。
こういった話に違和感を覚えていたのも、私自身が「彼氏」「彼女」といった括りを気にせず、「恋人」を想像しているからだった。
前述したBLのお話も、私が首を捻るのは、「『男性』というジェンダー同士の恋愛も、どんなジェンダーの方同士の恋愛でも、等しく『恋愛』でしょう?」と思っているから、特別に名前が付くことに違和感があっただけ。
結局は価値観、考え方の問題であって、周りの人も私も、誰も間違ってないし、誰も悪くない。
そう思えてから、心が楽になりました。
のえパラのおかげで、私は自分の価値観に名前をつけることができた。
のえパラを見ていなかったら、如恵留さんに出会えていなかったら、ずっと名前のない、得体の知れない違和感と共に生きていたかも知れない。
正体の分からないものほど、人間が恐れるものはありません。だから私はずっと怖かった。周りと違うかもしれない、自分は変なのかもしれない。そう思っていました。でも、こうして自分で情報を得て、自分の気持ちに合う言葉が見つかったことで、安心したのです。
このプロセスを教えてくれたのは、いや、自分がそれを知っていたのは確かでしょうが、確実に実践する強みと、その後に得られる幸せを教えてくれたのは紛れもなく如恵留さんでした。
性的マイノリティとカテゴライズされる人であると自分を認識したことで、怖さや不安もあります。
一方で、「違和感」が「価値観」になったことに、とてつもなく喜びを感じているのも事実です。これは私の考え方だ、人と違ってもいいんだと、胸を張れる理由ができたのです。
ジェンダーについての理解が深まっているとは到底言えないこの世の中では無理ですが、自分に与えてやることができたこの名前を誇らしく、嬉しく思っていると周りに伝えたくなるほどには喜びでいっぱいです。
さらに、こうして如恵留さんが作り出した舞台に触れ、そこに込められた想いを想像して、自分なりに咀嚼し、如恵留さんのように沢山のことを知ろうと私なりに努力して、改めて思ったことがあります。
マイノリティ、マジョリティなんてない。一人一人がそれぞれ個人であって、そこに共感や共鳴があったとしても、人の価値観が全て重なるなんてことはまずあり得ない。あり得ないからこそ、あり得ないことを念頭において、同じ部分も違う部分も、まとめて人を愛せる人になりたい。そう、私の気持ちを救ってくれた彼のように。
健やかでいてくれてありがとう、って、それが私の人生に関わってくれている全ての人に対する全ての想いだから。
如恵留さん自身の考えは分かりませんし、如恵留さんという1人の人間が自分で語ろうとする前に、こちら側が勝手に分かろうとしてはいけないものであることに間違いはありません。
それでも、ファンが勝手に期待することではないけれど、如恵留さんがこんな私にも、ほんの少しでいい、愛を注いでくれたら私は幸せです。
如恵留さんがいてくれたから、私は今こうして胸を張れています。如恵留さんは私の神様です。
.
彼の名前を出した割には、ほとんどコンサート本編について触れることができずに終わってしまいました。すみません。
お名前を出すことで、こんな私事の記事がもしかしたら検索に引っかかってしまうかもしれないという考えもありましたが、あの公演でこんな思いを持ったファンがここにいるんだということを少しの間残しておきたいという、勝手なエゴをお許しください。
冒頭に載せたリンクでは狂おしいほどの愛をぶつけているので、気になった方はそちらもご覧いただけると嬉しいです。
あなたが今この瞬間、あなたの人生で幸せをもらっている私のように、幸せでありますように。笑顔でありますように。
如恵留さんのおかげで世界が変わった1人のファンからの願いを添えて締めたいと思います。
.